人の命と全自動自動車

私は主だった新規の技術革新については製造物責任の基準を下げた方が良いと思う。様々な計画が提唱されているロボットによる車の自動運転のケースを例に取ってみよう。それは人間の運転する車と同様、事故による死者を出すだろう。我々は、規制と訴訟という現実によって暗黙裡に選好された現状の維持を当然のものとし、それを改めて見直すこともしない、というリスクを冒している。そのため、私の提案が実行に移されることはまず無いだろう。そのことはまた、イノベーターのインセンティブにも予め影響を与えてしまう。

なぜ自動運転の自動車が実現できない? - himaginaryの日記


現代においてはじめて自動車が登場したと仮定しよう。
現代に至るまでなぜか自動車が発明されなかった仮想的な平行世界を仮定する。
その世界で自動車は受け入れられ普及するか?


おそらく、否。
危険すぎるから。


長い自動車交通の歴史を持ち、インフラや自動車の安全対策が進んだ今でも年間5000人近い人が亡くなる。
これがもし今から実用化するのだとしたら、到底受け入れられる数字ではない。
ガス器具の欠陥だ賞味期限偽装だ狂牛病だと騒ぐ現代の雰囲気の中では。


我々には、人間が運転する自動車事故では自動車自体の製造責任ではなく、運転者の過失責任が問われるという社会的合意ができている。
こういったものは歴史的経緯から文化的に決まるものなんだと思う。もちろん、運転者の意図どおりに動かない欠陥車と認定されれば別なわけではあるのだが。

でも、こう考えたらどうだろう。
鉄道のような軌条も衝突防止装置もなく、車線や信号程度の規制しかないほとんど自由な開放系の上で相互に連携もない運動機械を運転者の裁量だけでコントロールさせるなんていう機械は危険極まりないのではないかと。現に多くの人の命を奪っている、そんな機械を製造していいのかと。


だから、それまで自動車が存在せず発展してきた仮想の社会の中で自動車が発明されたとしたら、そういった批判が起きるだろう事は想像に難くない。その社会が現代日本と同じような社会的雰囲気を持っているのだとしたら、批判される事は火を見るより明らかではないかと思う。


そんな危ない機械が受け入れられ(それ無しでは社会が存在しえないほどまで)普及することが可能だったのは、その普及期には人間の命が今よりずっと安かったからなのだろう。

つゆほどの はなのさかりや ちござくら

これは文政5年(1822)に6歳で亡くなったお姫様の残した句なんだそうだが、江戸時代には幼い命がうしなわれるのは日常的なことだったんだよな。
兄弟の数も多かった。
だから身近な兄弟が亡くなる体験をした子供も多かっただろう。
そういった体験の中で形成される死生感ってのは現代とはずいぶん違ったものになるだろう事は想像に難くない。


明治初年の東京の死亡率はボストンより低かったそうだが(エドワード・モース『日本その日その日』)、経済的に停滞していた江戸時代末期とそんなには変わらないだろう。


近代史を通して、人間の命の価値はずっと値上がりし続けてきた。
近代を通じて西欧の衛生状態は急速に改善してきた。
それでも結核は若くして死に至る病であり続けたし、乳幼児死亡率も高かった。


その間に二つの大戦があり、そんな中で自動車が普及していったわけだ。


戦後、抗生物質が生まれ、また栄養状態が改善した事で、感染症での死亡率は急速に下がっていった。
それと入れ替わるように、自動車が急速に普及することで交通事故死は年間一万人以上にまで増えたわけだけど。
その死亡事故件数もゆっくりと低下していった。


乳幼児死亡率も新生児や妊産婦の死亡率も劇的に下がった。
たまに出産時死亡がおきれば刑事事件になるくらい
お医者さんの努力で死亡率が下がった結果、お医者さんの責任が重くなるという現象があるんだな。


かようにして、人間は死ににくくなり、その分だけ、命の価値は上がり続けた。


こうして人間の命の価値がいまだかつてなかったほど高まった時代、アメリカのような訴訟社会や、マスコミがいっせいに一方向からの報道に狂乱する日本のような社会で、自動車の自動運転技術なんてのはたしかにリスクが大きすぎて研究投資の対象にはなりそうもないと思える。
実際には各社研究してるのは知ってるし、最近の進歩が著しい事もなんとなく知ってはいる。
だけど実用化となるとどうだろうか?
基礎研究と位置づけられてるのではないか?


近いか遠いかも判らない将来の実用化を見込んで研究するのと、実際に実用化して動かしながら現れた欠点を改良していくのでは技術進歩の速度も生産技術の進歩の速度も格段に違う。


だから多分、自動運転の自動車が実用化されるとしたら、日本よりはもう少しばかり命の値段が安い国からという事になるのかもしれない?


――そして


いつか改良が実を結び、走行距離あたり死亡率なんてのが人間の運転より自動操縦の方が低いという時代が来る。いくたびかの司法判断や法整備を経て、機械故障での自己の責任や保障に社会的合意がなされた時代が。


人間が運転する?
なんて危険な事を!?
――なーんていう時代。


そんな時代の死生感はどうなっているのだろう。
現代から外挿して考えるに、とてつもなく人の命が高くなった時代?


そして自動車はどこの国で作ってるんだろう?


ところで、この件と関係してくるかどうかわからないけれど、顔認識の論文をあさってた頃、中国系の名前が筆頭著者になってるのがとっても多い印象があったんだけど。*1
これって機械学習とかコンピュータビジョン一般に当てはまる傾向なのかな?
それとも工学技術系はみんなそう?

*1:対照的に、サーベイ論文とか見ても日本人の名前は全然出て来ない。せいぜいニューロ系の研究の初期の頃くらい? 門外漢の単なる印象だけど