差別の合理性
差別ってのは行動経済学で言うところのヒューリスティックなんだよな。
昔、プラハのシナゴーグを見た人から「それはとてもユダヤ人らしい場所に思えた」というような感想を聞いた。
そのときは、あまり考えもせず「ふーん」と聞き流してたけど。
後に、ユダヤ人にはユダヤ差別を受けるだけの理由があるんじゃないかという話をしたら、あの時はそういう意味もこめて「ユダヤ人らしい」と思ったのだという。
考えてみれば「あのころはフリードリヒがいた」とか愛読してた子だしね。
あの本にもユダヤの「選民思想」というある意味独善的な教理を唱和するシーンが出てくる。
心理学におけるヒューリスティックは、人が複雑な問題解決等のために何らかの意思決定を行う際、暗黙のうちに用いている簡便な解法や法則のことを指す。判断に至る時間は早いが、必ずしもそれが正しいわけではなく、判断結果に一定の偏り(バイアス)を含んでいることが多い。ヒューリスティックの使用によって生まれている認識上の偏りを、認知バイアスと呼ぶ。
ヒューリスティクス。
人間が社会生活をこなして行く上で不可欠だけど、人間の思考に見えない限界を課すもの。
スポーツや音楽なら褒められて、知識なら抑圧されるというのが、納得いかんわけですよ。学校で習わないピアノやギターが弾けようが、野球や囲碁ができようが、数学や英語ができようが、個性なんだからいいじゃん。
普段Twitterとかやらないんで、ブクマの「お気に入り」から読んだツイートだけど。
これ読んだ時は単純にガッコの成績は利害が見えやすいから「反感」という名前で包装された嫉妬を呼ぶんじゃないかしらと思ったんだけど。
英語でも「nerd」って言葉があるよね。
辞書ひくと、
[名]((俗))まぬけ;変わり者;オタク;頭はいいが流行や服装に関心[センス]のないやつ, 「ダサイ」やつ
とかでてくる。
まあ、アメリカにも反知性的な傾向ってのはあるわけだし、がっこの成績がいいやつは「いけすかない」という感情をもたれるのかもしれないけど。
ふと、これもヒューリスティックかなと思ったわけですよ。
男性脳ってのは胎児期のアンドロゲンシャワーで言語をつかさどる左脳が抑制される事で生じるとか、その事に関して男児に多い自閉症との関連とか言われるみたいですけど。
逆に言えば、統計的にがっこの成績と社会性には負の相関があるのかもねと。
ユダヤ人差別にしろ「オタク差別」*1にしろ同和問題にしろ、そこには「ゆえなき差別」とは言い切れない対立が隠れてるんだろうと思う。
だから、「ゆえなき差別」という言葉で差別思想を啓蒙しようという態度は正しくないんではないか?
「ゆえ」があろうがなかろうがそんな事は関係ないんだと言うこと。
君が、ある特定の知人の行動や思想を(伝聞やラベリングではなく)直接体験して「いけすかない」と感じる。
これはしかたがない。
聖人君子じゃないんだ。
だけど、その体験を、あるラベルでカテゴライズされるとされた集団に対して「ヒューリスティクス」として当てはめる事はどうか。
それは人として正しい事なのか?