素朴なニセ科学批判と素朴な科学信仰

id:finalventさんのところで、「ニセ科学」を巡って面白い議論が行われていた。

直接は関係ないけど、この日記のタイトルにしている「科学信仰」という単語がコメント欄の議論の中に出てきてたのでエントリしてみる。


トラックバックid:lets_skepticさんが書いている「ニセ科学」の以下の定義は多分妥当に思える。


  1. 科学を装っている*4
  2. 科学ではない
要するに、科学的には既に棄却されている事を「科学」を装って「売り込む」行為を「ニセ科学」というのだろう。

しかし、finalventさんの問題意識はどうやらそこにはなくて、「ニセ科学」と分類されたものを教条的に否定する態度にあるようだ。

一般市民(私も当然そこにふくまれる)が「科学」で既知の事実とされていることをいちいち検証する能力も手段もあるわけは当然なく、当該エントリのコメント欄でfinalventさんが書いている


市民社会にあって、科学とは、基本的には科学という信念でしかありません。
というのは、まったくそのとおりというか、さすが筆力がある人気ブロガーは違うなというかんじ。

自然科学的方法論の有効性は現代文明の存在それ自体が証明しているし、政治・経済から一般社会生活においても「自然科学的方法論」は、とっても役立つだろう(というか、世の中がもっと「マシ」になるだろう)とおいらは考えているんだけれども、現に自然科学によって「既知の事実」とされている事の妥当性なんてを担保しているのは、自然科学の方法論(検証手順をふくむ)の妥当性、と方法論からの逸脱を監視する組織体系の頑健性(逸脱からの復帰性とか負帰還とか安定性、あるいは科学者集団に与えられているインセンティブなんて言い換えても良いかもしれない)なんだと思う。
これらが担保されていると思えるから、おいらには妥当性を検証できない「血液型性格類型の統計心理学からの否定」なんてのをも信頼し、安心して「血液型性格判断」に「ニセ科学」のレッテルを張れるわけだ。
すなわちlets_skepticさんの定義の如く「科学的に否定されているのに科学を騙っている」と。


しかしまあ、実際のところほとんどの人にとっては、国際宇宙ステーションが回ってる時代に地球が丸いのを信じるのは当たり前だというだけの話で、つまり「自然科学的方法論の有効性は現代文明の存在それ自体が証明している」というだけの事。
そういう(ほっとけば当然そうだわな的)状況の中で、政治・経済から一般社会生活においても「自然科学的方法論」(というか、この場合「自然科学的方法の理解に裏打ちされた思考形態」とでも行ったほうがよいかな?)は、とっても役立つだろう…なんて考えを布教するには、たとえ国語の教科書でも「水伝」が載っちゃうのはかんべんしてほしいいんだけどなあ…。

…というのは、かなり「稚拙な科学教条主義」にしか見えなさそうだけど、怪我した左手が痛いので、今日はここまで。