『美』の本質的な説明不能性と、脳の認識機構
唐招提寺特集が読みたくて久しぶりに買った芸術新潮の12月号だけれど、ヴァンクリーフ・アーペルのニュース記事に載っていた『ブッダのクリップ』を見て思った事。
唐招提寺の三尊の圧倒的な美しさに比べて、この小品に感じる稚拙さはなんなんだろうという事。
ヴァンクリーフ・アーペルの数々の美しい作品は、見ていて素直に美しい。
にもかかわらず、この芸術新潮に載った『ブッダのクリップ』の画像だけは酷く「下手」な作品に見える。
写実造形という見地からは、唐招提寺の三尊も『ブッダのクリップ』に比べて決して優れているとは言えない。
おそらく仏教美術に親しんでいない西欧文化の中の人から見れば、『ブッダのクリップ』の稚拙さと、唐招提寺の三尊の写実造形の稚拙さにとりたてて違いはないんではないだろうか?
少なくともこの作品の職人は「これで良い」というところまでデザインし、造形したのだと思う。
そこにある齟齬はなんなんだろう、ということ。
『ブッダのクリップ』は仏教美術の約束事を守っていないという事はある。
正しく結跏趺坐になっていない。半跏趺坐ですらない。
禅定印も変。
しかし、こういった言語的な批判は、おそらく本質的ではない。
文化的背景に制約された美意識。
例えば、ショパン国際ピアノコンクールに入賞する日本人ピアニストはヨーロッパの音楽芸術の制約を全面的に受け入れているからこそ評価されるのだろう。
そう、制約。
もし、『ブッダのクリップ』が仏教美術の文化的制約に完璧に従った造形を持っていたとしたら、逆にそれはとても違和感のある造形になってしまうのではないか?
そして、我々が『ブッダのクリップ』に感じる稚拙さは、我々が持っている文化的制約の反映に過ぎない。
しかし、ショパン・コンクールに入賞するような制約から自由なピアニストの奏でる音はおそらく決して「美しくはない」。
美的感覚というのは脳の認知機構が持つ制約の一つの反映に過ぎない。
というより、むしろ、脳の認知機構が持つ制約に「抵触しない」造形を我々は「美しい」と感じるのではないか?
それは一種の「イデア」なんだろうと思う。
それはしかし、プラトンが夢想したような理想世界の造形なのでは決してなく、我々の持つ認識機構の限界を示しているのだ。
二次元の線画に「萌え」を感じるのもまたマンガという文化を受け入れる過程で形成された脳の認識機構によるのであって、誰々の作品が優れているとかいう論評が価値を持つのは同じような文化的過程を経験した脳を持つ人々の間のみなのだ。
そして、すべての人間の経験過程は異なっているのだから、芸術作品の持つ価値というのは本質的に個人的なものなのであって、あらゆる批評には「本質的な価値」などないのだと。
そんな事を思った。