誰でも写実的な絵を描くことができるということ

はてぶ経由で2chまとめサイトどんなにへたくそでも一日後には絵が上手くなる方法」を読んで刺激を受けたので書いてみる。

おいらが絵に目覚めたのは小学校4年の時。
担任の先生が多分美術教育に造詣の深い先生だったみたいで*1、図工の時間にクロッキーをやらされた。
机をどけて教室の真ん中に円形に椅子を並べて互いの写生風景を描かせた。

そのとき言われたのが、「見て描け」ということ。
大概の子供は写生といってもほとんどの時間は紙に向かって筆を動かしている。
対象なんて見てない。
ちらっと見てはもくもくと描く。
でもホントはこんなやり方では「写生」としてはダメなんだよね。
たしかそのとき先生は描く時間の倍は見ろと言ったような気がする。
靴下描くなら織目の一本一本まで見ろとか、そんなことを言っていた。
もちろん、織目の一本一本まで見る事自体がただちに写実に結びつくわけではない。
しかし、写実的な絵の技法なんて考えた事もない小学生に、書いてる時間の倍観察しろと言っても、何を観察していいかなんてわかるわけがない。
無用に視線をさまよわせるだけ。
そこで例えば級友の足元を凝視するよすがに靴下の織目まで見ろと言う。
素直な小学生だったおいらは素直に靴下を描こうとして、描いている級友の足元を細かい格子縞で真っ黒にする…。

ちらっと見て黙々と描いているとき子供達が何をみているかと言えば、たとえば白い雲、例えば緑の葉っぱ、例えば茶色い幹…。
脳が視覚から切り出して自動的にカテゴライズした記号だ。
自分が既に「知っている」カテゴリーの記号を紙の上に並べているだけ。
「ちらっと見ている」時、人は知識との照合をおこなっている。
ところが、写実をおこなうときに必要なのはそういう整理されカテゴライズされた知識との照合じゃないんだよね。
全然必要ない。描画技法の知識は役に立つけど、描画対象の形態の知識はむしろ邪魔になるんだよね、対象が自分の網膜に映っている形状をひたすら紙に写すという作業には。
知っているものを描くんじゃないだよ、写実ってのは。

見ている対象がどのように網膜に映っているか、普通、人はまったく意識していない。
これは絵を描く人間でも同様だと思う。
絵を描くときには脳の認識作用が邪魔をする。
暗いところにある相対的に明るい面は、明るい場所の相対的に暗い部分より明るく見える。
網膜上で斜めに交わっている輪郭線は、直交した輪郭線が空間上に寝ている状態だと認識される。
例えば椅子を描いているなら、写生に邪魔になる脳の認識作用を無効化するために、椅子の形ではなく椅子の輪郭と背景のタンスの輪郭が形成する図形のあたりをとって描く。そして椅子の足と床の模様の交差する形が網膜に映る像と食い違っていないか確認して修正する。
椅子の形に注意を向けるのはそのあとだ。

小学校4年の時「目覚めて」以来、次第に身につけていった技術で、多分、写実的な絵を描く人なら無意識にでも普通に実践しているのではないかと思う。
それを言語化したような「絵の描き方」を書いた書籍に出会ったのは成人してからで、本屋で立ち読みしたかんじでは自分にとって特に新しい事はなかったので買う事はなかった。
なので書籍のタイトルを覚えてないんだけど、ここでも152で言及してる人がいるけど、多分、『脳の右側で描け』じゃないかな*2
ただ、この本を立ち読みして確信したのは、「誰にでも写実的な絵は描ける」という事。
特異な才能ではない。
特殊な技術ではあるけれども。だって、人類数千年の歴史の中で写実的な描画技法が存在したのはごく限られた地域のごく限られた時代だけだからねぇ。
ただ、特殊だとはいっても、正しい指導者につけいて学ぶ機会があればほとんど誰でも身につけられる技術ではある。
それをはっきり言語化してくれた書籍ではあった。

一方、ここで1が言ってるのは知識を使って描くことを学ぶための入門編なのだけれど、上記の写実のテクニックはすごい役立つんだよね。1が言及してるルーミスの本で学ぶときにも、そもそも形態を観察して知識化するための基礎体力として実は不可欠なんじゃないかと思う。*3
それを知らないで大量に練習しても、いつかはたどり着くだろうけど、遠回りというよりむしろ技術も無しに北壁に挑んで何度も挫折する試行錯誤の中で登攀技術を覚えていっていつか登攀に成功する事を目指すようなものというか。
先に登攀技術を覚えてから実践したほうがはるかに能率が良いし結果として登れる山も高くなるんだと思う。


しかし、脳の認知機能ってのは面白いよねぇ。
がんばって写実的に描こうと対象を観察してると、自分が如何に知識だけでものを見てるのかが判るんだよね。
写真資料とか見て描くときより実物を見て描いてる時の方がはっきり自覚されるんだけど、例えば固定電話の受話器を写生してるとするじゃん。
へーこんな形だったのかぁ。知らんかった! みたいな感じなんですよ。
見てるようで見てない。
実際しげしげ見てるだけでも発見があるかも知れないけど、実際に網膜から紙に形を写そうという作業が脳のモードを切り替えてしまうのか、描く作業で発見する形ってのは、なんというのかな。認識の「深さ」が違うんだよね。本質的に言語的でないんで、説明が難しいんだけど。*4

*1:絵だけじゃなくて立体もすごくて、同級生の中には粘土(塑像)とか軽石(彫像)で、ものすごい完璧な写実を出来るようになった子がいた。その課題を苦戦しているおいらに対してもおそらくは貴重な助言がいくつかあったんだけど、当時のおいらにはどうも理解出来なかったみたいで記憶に残ってないのが残念。絵は上達したけど造形はだめだった…

*2:こちらで「ネガティブスペースを描く」という単語を見て確信した。この本で間違いないす。ここでおいらが書いてる描き方よりストレートで本質をついてますね。あと、こちらとか。この本で自分が描く過程で身につけた技法を言語化で来た人は案外多いのかも

*3:人体を円筒の集合でモデル化するなんてのはまさにそう。脳のモードを「視覚投射モード」に切り替えて描かないと結局先入観にとらわれるだけで訓練時間を空費する

*4:ただ、ここで言っている認識の深さというのは、きわめて個人的な体験で、もちろん人を強く捉える絵を描くこととは全然別。おいらにはその辺の才能はいまひとつ伸ばせなかったみたいだねぇ