理系と文系?
以下は、おいらの巡回ブログのひとつ「wrong, rogue and log」のエントリからの抜粋
(略)
それを文科系に見せたところ、何を書いているかワケがわからないと言われる。しかし、こちらはこんなにロジックが明らかなのにどうしてそれが理解できないのかがワケがわからない。このように、C.P. スノーの「二つの文化」じゃないけれど、どうにも二つの領域の間には広くて深い溝があるようだということを実感している今日この頃だ。そして、お金をコントロールする立場の人間が圧倒的に少ない僕ら理科系の人間は必然的に負ける運命にあるのも自覚しているのだが、それでも爾来の逆張り反骨精神が邪魔をして、Excelの軍門に降るのを潔しとしない自分がいるので、結構困ったことになっているのだ。
でもまあ、真剣に内省してみれば
「どうしてそれが理解できる」
のかも実は判らないわけで。
我々は自分の脳の機能をまったく理解していない。*1
おそらく、ひとつ言えるとすれば、数学的なシンボルの操作能力を獲得する過程は、言語能力を獲得する事に似ているということ*2。
これは、例えば、写実的な絵を描く能力が実は天賦の才能ではなく、ある特殊な技術(網膜に映った映像を紙に写す能力)を獲得する事であるという事(前回エントリ)とどこか似ていないか。
ピアノを弾く能力でも良い。
将棋をうまくさす能力でも良い。
恐らくそれらには共通した部分と、それぞれの能力に対応して異なる部分がある。
理系と文系と言う対立軸とは、つまり二つの言語文化圏の衝突になるのかしらん?
すると、高校の授業で、どちらかというと数学が苦手で、国語が得意だったおいらは、文系という事になるのかしらん?
(しかし理科は得意で社会が苦手だったりしたわけですけどもw)
それはともかく;
形式論理を持ち出すまでもなく、数学概念やその操作は、人間の言語能力と分かちがたく結びついている。
数学的能力を言語能力と結びつけて考えるのは多分、多くの人々が試みてきた事で、今後脳科学の進展でさまざまな知見がもたらされるんじゃないかと期待してるんだけど…。
下の本は数学者が思考した、数学する能力と言語の進化についての考察。
わりと面白かった。
数学する遺伝子―あなたが数を使いこなし、論理的に考えられるわけ
- 作者: キースデブリン,Keith Devlin,山下篤子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2007/01
- メディア: 単行本
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