経済成長は悪か?

id:satohideさんのところで盲目的な成長路線についての否定的な見解が書かれていて、おいらなりに考えて見た。

これ、供給力が毎年2〜2.5%ずつ増えているから需要も増やさないとどうにもならなくなるという理屈だけれど、論理が逆様なのだ。

これに対するおいらの当座の理解では、satohideさんの主張を実現するためには、現在の経済学を代替する経済学を構築し、根本的に社会のあり方を変える必要があるという事。
そして、人類の歴史の中で社会を将来の予見によって変えようとする試みはほとんど失敗してきたし、社会というものは内在する矛盾や外部からの強制力によって物理運動の如くいやおうなく変化してきたという事。
為政者に出来る事は、この運動の方向をわずかに変えて行く事だけ…。


単純に資源の消費量が等比級数的に増えていくのだとしたら、我々は確実に破綻する。
これは、マルサスの昔から変わらない真実。
昔々、「ローマクラブ」というのがあって、この当たり前の事実によって、人類は近い将来きわめて深刻な事態に直面すると警告した。
おいらは、ローティーンくらいの頃にこの警告を何かで読んですごいショックを受け、その後の消費行動にすごい影響した(笑)。結局、車の免許をとる気にならなかった理由のひとつはこれ。(最近のエコブームってのは、時代がやっとおいらについてきたってかんじ?笑)

自家用車なんてのはほんとに個人のエゴが具現化した巨大な浪費だと思う。
ところが、この浪費の力が工業国家の力の源泉であり、世界を支配している。


ただ、経済規模の伸張というのは必ずしも資源を浪費する量の拡大と等価ではないと思う。
サスティナブルな社会として例に上げられることがある江戸時代の社会も経済は成長してたんだよね。
同じ食材を調理してもド素人が調理したものより腕の良いプロが調理したものの方が高い値段で売れる。つまり付加価値が高い。皆が外食できる江戸町人的社会のほうが皆が「うちめし」する弥生的社会より経済規模が大きい。その根底には農業生産性の向上がある。*1
皆が外食をする社会が成立可能であるためには、その社会が調理人を雇う余裕がある必要がある。
(当然、食材の流通コストとか、外食のための移動コストがかかるという指摘ができると思うけど、これらを「浪費」とみるかどうかは結局「持続可能性」によって判断されるのが妥当ではないかと思う)



近代の経済は単位労働あたりの生産性の向上によって拡大してきた。

引用された『Baatarismの溜息通信』さんのとこブクマに id:fromdusktildawnさんが他のidへの返信的に書いてるコメントをみつけた

生産装置、業務プロセス、業務スキルの改良は少なくともまだ数十年は止まる気配がない→1人あたりの生産性は否応なしに伸び続けてしまう。→ GDPゼロ成長だと、失業者が増え続けることになる。


そう、生産性が極限まで向上した社会では、働くことが出来る人間が極端に減ってしまう。
『404 Blog Not Found』の『働かなくても生きて行ける煉獄』の到来だ。


しかし、待って欲しい。
同ブログでDan Kogai氏も指摘しているように、こんなことは既に「先進国においてはほとんど実現している」んだ。
先進国においては、(中国のような途上国でも実は既に*2)食糧生産者は人口の数%しかいない。
食糧生産者の生産性を向上させるための器材や投入肥料の生産・流通にたずさわっている人口、そしてこれらの生産・流通をさらに支える人口を考えても、それとは無関係の産業活動にたずさわっている人口のほうがはるかに大きいのではないか。
彼らのおこなっている事は全て「浪費」なんだろうか?


例えば、今後高齢化社会の進展によって医療福祉産業は拡大して行くだろうが、これは浪費の拡大になるだろうか?
将来確実に枯渇する化石燃料を代替する新エネルギーの開発・生産もまた確実に拡大して行くだろうが、これは浪費の拡大になるだろうか?
これら産業は生産性の向上によって必然的に生まれる余剰労働力の吸収先として期待されている。

市場経済をやめてしまうということなら別だが、生産性の向上分の市場の拡大がなければ失業が常態化し、購買力は低下、経済規模はシュリンクしていくだろう。今の日本に起きているように。
そして、停滞して縮小していく経済は、代替エネルギーの開発余力もそこに投資する余力も失われていく。



我々は既にこのままではとうてい持続可能ではない産業社会形態を完成させてしまった。
我々が我々の幸福と安寧を維持したまま持続可能な産業社会形態に移行するためには、走る速度を緩めるという選択肢はほとんどないと思う。
むしろ、走り続けて、持続可能性という巨大なギャップを飛び越える加速度を得るしかないんだ。

*1:話を単純にするために食糧生産者と調理人しかいない社会を考えてみる。
食糧生産者は生産した食材を調理人に売り調理人から料理を買う。調理人は生産された食材を買い、加工して食糧生産者に売る。売って得たお金で自らの食料も購入する。
調理人が存在しない社会では、これらの売買は存在せず、彼らの生産活動を足し合わせた経済規模も小さくなる。
で、この社会が成立する条件を考えてみる。
それぞれが自分の食い扶持を生産する事がやっとという社会では調理人を雇う事は出来ない。
彼らが雇う調理人の食い扶持も生産する必要がある。
そう、この社会がどれだけ多くの調理人を雇えるかは食糧生産者の生産性に依存しているんだよね。実際、江戸時代に伸びた生産性の統計もあるけど、例えば奈良時代と江戸時代の農民の租税負担率(数%→40〜60%)からも十分推測可能

*2: 高橋 "中国の人口は13億人ですが、就業人口を見ると7億7000万人に達しています。この7億7000万人のうち3億人が農業就業人口。さらに、そのうちの2億人を農民工が占めています。農業就業人口3億人のうち2億人は余剰。農村にはいなくてもいいわけですよ。"―日経ビジネス―