脳のわりと根源的機能。

本を読みながら長風呂していて、ふと思った。
私は、今、文字を追う事をほとんど意識せずに本の内容を読んでいるなぁと。
我に返ってみれば、紙の上に無数に並んだ大量の符号。


ゲシュタルト崩壊? いやいや、そういう事を考えていたわけではない。


人間は生得的にカテゴライズ能力を持っている。
大量の漢字をほとんど意識もせず識別する。
連続的に変化する発声*1を無意識のうちに母語固有の音素にカテゴライズして人の話を聞く。
(言語の成立にはカテゴライズ能力が不可欠だ。)


難読症とされる大雑把な分類群(これもカテゴライズだ)の一部には、この大量な文字の自動カテゴライズ(=識別)の能力の一部に障害がある場合があるのではないだろうか。


文字を読んだり言葉を話したりする事に結びついているし、これらは人間の思考力を他の動物から大きく飛躍させたものでもあるし、カテゴライズ能力というのは人間の獲得した高次の機能のような気がしていたんだけど、このカテゴライズ能力、実はとても古い起源を持っているんではないか?
発生分化にかかわる遺伝子ほどではないにしろ、動物が中枢神経を獲得してからこの能力の獲得まではさほど距離がないんではないか。
網膜に映った物をすばやく分類して次の行動のトリガを引く。耳に聞こえた音をすばやく分類して敵の接近を知る…etc.
そんな事を思った。


このカテゴライズの能力が逆に人を縛る。

いわゆるレッテル張りによる思考停止。
ホントは、皆が考えるよりとっても根深い。
カテゴライズは世界にあふれる情報を処理可能なレベルに集約してくれるほとんど自動的な脳の反応の重要な要素のひとつだろう。
あまりにも自動的過ぎて人はその情報集約≒情報逸失に気付く事すら出来ない。


分類学は人の持っている生得的かつ無意識的な分類能力を、あえて意識し、より体系的かつ恣意性を排除する形を求めて整理された。
やがてのちにはその背後に生物界の適応放散があったことを見出す。



とか、いろいろ考えつつ風呂をあがる――。
(考えるのはいいが書くのはやっぱめんどいね)

*1:以前、リップシンクを自作しようと考えたときに、何人かの人に協力してもらって「あいうえお」の発声をFFTにかけた事があるんだけど、予想に反して五つの平坦な音が急激に変化する境界を持って現れるわけではなくどこが境界かわからないほど滑らかに変化してたんだよね